「世界と他者に対する“親密性”と生きる為に働くという事」

世界と他者に対する“親密性”と生きる為に働くという事


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以下引用

「知の創出」のコモディティ化への戸惑い - My Life Between Silicon Valley and Japan

世の中は日に日に複雑化し、「勉強能力」「学習能力」が仕事上ますます大切になっているのは事実である。ただその一方で、それだけで飯が食える場(チャンス)が確実に減っている気がしている。インターネットのおかげで。あるいはインターネットのせいで。

それで一つの仮説として、「飯を食うための仕事」と「人生を豊かにする趣味」はきっちり分けて考え、「勉強好き」な部分というのは「音楽好き」「野球好き」「将棋好き」と同じ意味で後者に位置づけて生きるものなのだ、と考えるってのはアリなのかもしれないなと思い始めているのである。文学哲学が好きで文学部に進んだ人なんかの場合は、「最初から就職先あんまりないぞ」みたいな覚悟があって、ほんの一握りの才能を持った人以外は、「勉強好き」(自分が楽しめると思える領域の勉強)の部分を仕事で活かせるなんて、はなから諦めていた。そしてその部分を「人生を豊かにする趣味」と位置づけて生きるのは、これまでも当たり前の流れだったのだろうと思う。その感じが、文系世界では経済学部法学部のほうまで、そしてさらに理系にまで、どんどん侵食してくるイメージ。そう言ったらわかりやすいだろうか。同意できる仮説かどうかは別として。

では「飯を食うための仕事」という部分では純粋に何が大切なの? という話になるとやはり「対人能力」なんだろうな。そこをきちんと意識しておかないと、つぶしが利かないんじゃないかなぁ。そんなことが言いたかったのである。ここでいう「対人能力」は前エントリーで述べた「村の中での対人能力」ではない。組織の外に向かって開かれた「対人能力」のことだ。




自負心や存在意義を包含する自我アイデンティティには、『私は、私以外の何者でもない』という実存的価値の側面と『私は、社会環境において○○としての役割を担っている』という社会適応的な側面とがありますが、前者が過剰になれば唯我独尊的な孤立の恐れがあり、後者が過剰になればシステマティックな労働環境機械的に取り込まれる恐れがあります。

後者は、厳密には既存の社会体制への適応性や社会からの受容性とも密接に関わっていて、決定的に社会的アイデンティティの確立に失敗すれば、非社会的問題行動が遷延したり、特異な反社会的行動・組織に魅惑を覚えたりすることもあるかもしれません。

前者の実存的価値の側面は、独我論的な存在そのものの価値であると同時に、経済的利害から切り離された情緒的価値の充実でもあります。
例えば、収入を若干犠牲にする代わりに拘束時間の短い仕事に就いて、家族・恋人と過ごす時間を増やしたり、趣味の合う仲間や友人とくつろぐ時間を充実させたりといった形の幸福追求の形もあるのではないかと考える事も出来るというような事です。

エリクソンは、青年期後期の発達課題に、“親密性の獲得”を置き、それと対置するものに“孤独”を置きましたが、これは、『社会環境における役割遂行』と相補的な『密接な人間関係の確立』を意味するものです。
勿論、孤独な時間でしか出来ない行為や楽しみもありますが、誰とも関わることのない徹底的な孤独は、多くの人を憂鬱にし現実感覚を希薄化させるのではないでしょうか。誰からも好意や興味を寄せられないという孤独の悲哀は、時に、社会への嫌悪や否定の感情をも呼び起こします。

精神的な健康や安定の為には、一定以上の社会的交流や他者とのコミュニケーションが必要なわけであり、私は『仕事の為の対人スキル』と合わせて『継続的な人間関係を結ぶ為の対人スキル』も現代社会には求められるのではないかと考えます。

うまく説明できないのですが、単純に、結婚をして夫・妻・子どもを持つほうが良いというような意味での親密性の獲得ではなくて、『(本人が不本意であるような)飯を食うための仕事』が虚しくならないような、言い換えればただ自己の生存の為だけに働くのではないことを信じられるような『親密性=安らぎや幸福感を得られるような継続的な人間関係』が人間には必要なのではないかと思うのです。

親密性の概念を更に拡張するならば、『この世界への親密性』としてもよく、その場合には『人間関係だけに留まらず、飯を食うための仕事をする以上の見返りを得られる対象・事物の獲得』ということになりますが、こういった世界や他者への親密性を心底から信じられなくならない限りは、人はそれなりに社会生活に適応して、自分固有の生の面白さや楽しみを発見し続けていけるものだとも思います。


(注記:精神分析的に解釈するならば、『親密性』には性的成熟と生殖成功(子孫の継承)の意味が強く含まれるが、ここでは主張の文脈に合わせて『人間関係の親密性・継続的な人間関係・意味を感じる事象全般』という意味合いに重点を置きました)

エリクソンは、社会的アイデンティティについて、以下のように述べています。



各個人の神経症の克服は、彼(彼女)を今のような彼(彼女)にした歴史的必然を受け容れるところから始まるのである。各個人が自己自身の自我同一性アイデンティティ)との同一化を選択することができるとき、そして、また与えられたものを為さねばならないことへの転換をすることができるとき、人間は自由を体験するからである。

エリクソン自我の強さと社会病理学』より








『勉強が好きな少年』が、それを職業につなげていこうとするならば、まず考えるべきなのは、『純粋に勉強だけで生計を立てる事と勉強を知的好奇心に応じて楽しむ事との差異』であり、そういった差異を経験的にあるいは合理的に知ってもなおそれで生計を立てたいかどうかを自問することでしょう。
更には、『現代社会で“純粋な勉強”に対価が支払われる可能性』が、自らの興味ある分野(専攻分野)と自らの知的能力・勉強意欲を考えた場合に、どのくらいあるのかなどを現実的に検討していく必要もあるかもしれませんね。

しかし、そういった賢しらな計算や思惑を抜きにして『ただ好きだから、時を忘れて懸命に勉強し続けられる人』こそが、本当に、勉強好きな少年の精神を、大人になっても保ち続けている人なのでしょう。
『無垢なる子どもの精神』は、ニーチェが至上価値を見出した精神性ですが、現代社会では、既存の価値体系や経済的制約に捉われない少年の自由な精神を、社会的アイデンティティと共に持ち続ける事は困難です。

しかし、勉強好きと結びついた社会的アイデンティティの確立が困難である一方で、情報化された現代社会では、知的好奇心を刺激する膨大な情報が氾濫していて、誰もが比較的簡単に『興味ある情報を即時的に消費する快楽』『興味ある情報を題材に対話する喜び』『フローな情報を知識としてストックする充足』を得ることが出来ます。
そのことから、社会的属性と結び付けずに、精神的な満足を得る目的で勉強(知的営為)を楽しもうとするならば、現代の情報社会には、十分に整備されたアクセシブルな環境が用意されているとも言い換えられるでしょう。